LOGIN放課後になると、美術室へと足を運ぶ。
南条はすでにキャンバスに向かっていて、俺はそれを斜め後ろから黙って眺めていた。 部員たちが来る前に立ち去る。それももう、すっかり習慣になっていた。 絵を描く音、画材の匂い、淡い陽の光——ここにいると、時間がゆっくり流れている気がする。 今日もその時間を存分に堪能した俺。 居心地の良さすら覚えるその静けさを、すこし惜しむようにして、美術室を後にした。◇
昇降口に向かって渡り廊下を歩く。
その途中だった。 見覚えのない女子生徒が、ふいに俺の前に立った。 サラサラと風に揺れるミディアムヘア。校則ぎりぎりの長さを超えたスカートの裾が、ふわりと揺れる。 その人は、当たり前のように俺の名前を呼んだ。 「白浜くん」 呼びかけられて、つい足が止まる。 「あ……うん」 なんとなく返事をするものの、女子生徒の名前がすぐには浮かばなかった。 顔も、声も、記憶に引っかからない。 彼女はこちらをまっすぐ見たまま、ぽつりと口を開いた。 「最近、南条陽生くんと仲いいんだね」 「……え?」 思いもよらない名前が出てきて、咄嗟に変な声が出る。 なんで、南条の名前がここで出てくるのか。 状況が読めない俺は、動揺を悟られないように、いつもの調子で軽く笑って答える。 「まぁ……うん? 変わってるなって思ってさ。なんか、面白いやつだなって。話したくなるっていうか?」 言葉を繋いでいるうちに、胸の奥がじんわりと締めつけられていく。 自分でも理由がよくわからなかった。 ただの言い訳みたいに聞こえていないか、それだけが気になってしょうがない。 彼女はしばらく何も言わず、俺の顔をじっと見つめていた。 やがて、視線をゆっくりと外して、小さく息を吐く。 「……そっか」 その一言に、なぜか胸の奥がざわついた。 何かを悟ったような空気をまとう、消えそうな声色。 意味がわからないのに、なんだか責められているような気がして、言葉が出てこなかった。 思考が止まる。 目の前の風景が、急に遠く感じた。 俺は、何か悪いことをしているのだろうか。 誰かを裏切ったわけでもない。誰にも迷惑をかけていない。 それでも——胸のどこかが、ひどく重くなった。 「……」 彼女はそれ以上何も言わず、こちらに背を向けると、昇降口へと歩き出していった。 取り残された俺は、ぽつんとその場に立ち尽くす。 足元に差した西日が、長く影を引いていた。南条と話すことが、こんなにも〝誰かの目〟に映っているとは思いもしなかった。
ただ、気になっていただけだった。 ただ、絵を見たくて、美術室に通っていただけだった。 どうしてだろう。 どうして、見知らぬ人に聞かれなきゃならないのか。 俺は何か、悪いことでもしているのだろうか……その答えがわからないまま、俺も昇降口に向かって歩き出した。「なぁ、正式にモデルしようか?」 美術室の真ん中、いつもの定位置にいる南条の真正面に座りながら、思い切って口にした。 彼は明らかに顔をしかめた。わかりやすいほどの拒否反応。 でも俺は、ここで挫けない。 心を鬼にして、南条に言葉をかけ続けた。 「動くと、描くの大変だろ? 俺、ちゃんとじっとしてるよ!」 「……別に、君を描いているなんて言ってないけど」 相変わらずつれない返事。 でも、その言葉とは裏腹に、彼の表情はほんのすこしだけ緩んでいる気がする。 南条は手を止めると、ゆっくりと立ち上がった。 そして椅子を手に取り、キャンバスの前からすこし離れた位置にそれを置いた。 「……まぁ、動かないでいてくれるなら、助かる」 短く、静かな言葉だった。 でもその一言が、心にじんわりと染み込んでくる。 認められたような、受け入れられたような。 小さな〝許可〟が、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。 俺は促されるままにその椅子に座り、姿勢を正す。 南条はため息をひとつ落とし、再びキャンバスの前に戻って筆を手に取った。 美術室の中に、静けさが戻る。 窓の外からは、夕方の光が柔らかく差し込んでいた。 その光の中で、紙の上をすべる鉛筆の音が、心地よく響いている。 まるで、ここだけ時間の流れが違うみたいだった。 「……なぁ。なんでいつもさ、最初はお前しかいないの?」 じっとしたまま、ふと疑問を口にする。 美術室に来るたびに、最初にいるのは決まって南条ひとりだけだった。 静かな部屋の中で、ひとりキャンバスに向かうその姿。 ずっと前から気になっていたけれど、聞くタイミングを完全に見失っていた。 「……みんな、部活を掛け持ちしてる。生粋の美術部員は僕だけ」 「え、そうなの?」 身体はそのままに、言葉だけをぽつぽつと繋いでいく。 南条もまた、視線をキャンバスから外さずに、同じよう
放課後になると、美術室へと足を運ぶ。 南条はすでにキャンバスに向かっていて、俺はそれを斜め後ろから黙って眺めていた。 部員たちが来る前に立ち去る。それももう、すっかり習慣になっていた。 絵を描く音、画材の匂い、淡い陽の光——ここにいると、時間がゆっくり流れている気がする。 今日もその時間を存分に堪能した俺。 居心地の良さすら覚えるその静けさを、すこし惜しむようにして、美術室を後にした。◇ 昇降口に向かって渡り廊下を歩く。 その途中だった。 見覚えのない女子生徒が、ふいに俺の前に立った。 サラサラと風に揺れるミディアムヘア。校則ぎりぎりの長さを超えたスカートの裾が、ふわりと揺れる。 その人は、当たり前のように俺の名前を呼んだ。 「白浜くん」 呼びかけられて、つい足が止まる。 「あ……うん」 なんとなく返事をするものの、女子生徒の名前がすぐには浮かばなかった。 顔も、声も、記憶に引っかからない。 彼女はこちらをまっすぐ見たまま、ぽつりと口を開いた。 「最近、南条陽生くんと仲いいんだね」 「……え?」 思いもよらない名前が出てきて、咄嗟に変な声が出る。 なんで、南条の名前がここで出てくるのか。 状況が読めない俺は、動揺を悟られないように、いつもの調子で軽く笑って答える。 「まぁ……うん? 変わってるなって思ってさ。なんか、面白いやつだなって。話したくなるっていうか?」 言葉を繋いでいるうちに、胸の奥がじんわりと締めつけられていく。 自分でも理由がよくわからなかった。 ただの言い訳みたいに聞こえていないか、それだけが気になってしょうがない。 彼女はしばらく何も言わず、俺の顔をじっと見つめていた。 やがて、視線をゆっくりと外して、小さく息を吐く。 「……そっか」 その一言に、なぜか胸の奥がざわついた。 何かを悟ったような空気をまとう、
「あれ……これって、もしかして……俺?」 放課後。 今日もいつものように、美術室に立ち寄った。 いつもと同じ時間だった。 でも部屋の中には、南条の姿がない。 すでに絵の前に座って鉛筆を走らせている時間のはず。そう思って部屋を見回すと、机の横に置かれた鞄を見つけた。 南条はどこかへ行っているのか。 不在の理由はわからない。けれど、俺はなぜか、部屋にひとりで立っていることに戸惑いを覚える。 それと同時に、その戸惑いよりも、もっと大きな感情が湧いていた。 これは、キャンバスを見るチャンスかもしれない。 昨日、すこし見えたあの〝人物〟が、どうしても気になっていた。 南条には「見るな」と言われ、その後は渋々視線を逸らした。だから、まともに見れていない。 「……」 俺は悪いことをしていると理解しつつ、ゆっくりと、彼のキャンバスに近づく。 見るつもりなんてなかった、という言い訳は、もうできない。キャンバスに掛けられた薄い布を、そっと取る。 ——描かれていたのは、空。 そしてその下に立つ、ひとりの人物。 濃淡を使いわけた鉛筆の線で描かれたそのシルエットは、今もまだ細かくは描き込まれていない。それなのに、不思議と〝生〟を強く感じさせた。 背中。髪のくせ。立ち方。肩の傾き。 どこか、見覚えがある。 いや——これは、きっと。 「……俺、じゃないか?」 小さく呟いたそのとき、不意に背後から声が飛んでくる。 低くて冷たい、聞き覚えのある声だった。 「……勝手に見んなって言ってるだろ」 「っ……あっ」 驚いて振り返ると、すぐ後ろに南条が立っていた。 いつ扉が開いたのかもわからなかった。 眉をひそめて、不機嫌そうにこっちを睨んでいる。 「わ、悪い……でも……」 言い訳の言葉が口の中で絡まる。 南条はゆっくりと歩み寄ると、無言でキャンバスの前に立ち、乱暴な動作で布を被せた。 まるで何か〝見られてはいけないもの〟でも隠すかのように。とにかく荒い。 「……見ないでって言ってるのに。何回言えばわかるの?」 低い声。怒っているというよりも、どこか困っているような声色に思えた。 普通ならここで引き下がるだろう。
「樹~。なんで最近、美術室に通ってんの?」 放課後、下駄箱の前で声をかけてきたのは、親友の富岡有理だ。 気さくで何でも話せる、昔からの友達。部活を引退してからも、ちょくちょく一緒に帰ったりしていた。 「え、なんとなく!」 俺は軽く肩をすくめて返事をする。 『絵が気になるから』なんて絶対に言えなかった。 だって、南条のあの絵のことを語る自信もないし、説明できるほど整理できていない。 それに——単なる興味だけで毎日足を運んでるなんて、どう考えてもおかしい。 有理がじっとこっちを見つめてくる。 その視線に焦って、俺はわざとらしく笑いながら有理の肩を軽く叩いた。 「ま、そういうことで。じゃあ、また明日なー!」 そう言って、その場を早々に離れる。 向かう先は、もう自分の中で決まっていた。 掃除当番はとっくに終わっている。先生に命じられていた罰も、もう済んでいる。 それでも俺の足は、勝手に美術室を目指していた。◇ 扉を開けると、やっぱり彼はそこにいた。 南条陽生——昨日、大澤先生からそう聞いた名前。 今日も変わらず、淡々と絵を描いている。 彼はちらっと俺の方を見て、すぐに視線をキャンバスに戻した。 「南条、お疲れ!」 明るく声をかけると、彼は勢いよく顔を動かした。 眉をひそめて、ものすごく怪訝そうな顔をする。 「……僕、君に名前を教えたっけ?」 あからさまに不機嫌な声色をしていて、すこし面白い。 顔はこちらを向いている。 でも、鉛筆を動かす手は止まらなかった。 その様子すらも、今の俺には〝見れてよかった〟と思えてしまう。 そんな自分が、不思議でしょうがない。 ふと、彼の描いているキャンバスが目に入った。 前に見たときは〝空〟だけだったはずなのに、そこには、新しく何かが描き込まれていた。 「……ん? なんか描き足してない?」 自然と覗き込む。 空の下には、小さく人物のようなシルエットがあった。 「……勝手に見んな」 「いいじゃん」 後ろ姿。背中。輪郭だけの線。 たぶん、男性。 細部は描かれていない。でも
美術室を出て、昇降口へ向かう途中。 ちょうど職員室前を通りかかったとき、扉の前に立っていた担任の大澤和佐先生が、にこっと笑いながら手を挙げた。 「よ、白浜。今日も美術室掃除か?」 「いや、昨日までで終わったよ! でも、なんかちょっと……気になることがあって、自主的に掃除してきたとこ!」 ちょっと照れながらそう答えると、先生は「あはは」と笑った。 相変わらずの柔らかい笑い方で、なんでもない話でも聞いてくれる感じが心地よい。 一緒にすこし歩いた先で、先生は廊下の窓を開ける。 風が吹き抜け、制服のネクタイがふわりと揺れた。 「気になるって、何か楽しいことでもあったんか?」 そう聞かれて、俺はなんとなく視線を泳がせながら、小さな声で答える。 「あー……うん、なんていうか。面白い人がいてさ」 思い浮かぶのは、あの絵を描いていた無表情の眼鏡。 冷たくて素っ気なくて、すこし苛立つ。けれど、そいつが描く絵に惹かれる。なんだか目が離せない。 そのことを言葉にする前に、大澤先生が「あっ」と何かを思い出したような顔をした。 「それって南条だろ?」 「……南条?」 「そうそう。背が高くて、眼鏡かけてて。美術部の。お前と同じ学年の子やろ?」 「え、3年?」 思わず聞き返す。 あの眼鏡、俺と同い年だったのか。 まったく知らなかった。同級生にあんな空気感の人がいたなんて。高校生活も3年目だというのに、驚きが隠せない。 「知らずに話してたのか? まぁ……南条は、あんまり人と関わるタイプじゃないしな」 「そっかー。南条っていうんだ、あいつ。絵が上手くて、めっちゃすげぇ!! って思って話しかけたんだ~」 ただ名前を知っただけだ。 それなのに、なんだかすこしだけ距離が縮まったような気がして、胸の奥がくすぐったくなる。 「ていうか、俺さ! 名前も知らずに話しかけて、勝手に興味持って、勝手にすげぇとか思って……なんか俺、変なやつじゃない!?」 冗談めかしてそう言うと、大澤先生はふっと目を細めた。 「まぁ、白浜らしいやろ。それに、そうやって何かに惹かれるのって、悪くないで」 そう言われて、照れ隠しにへへっと笑う。 「ほんと!? いや、なんかさ……ああやって〝特技
気がつけば、また美術室に足が向いていた。 昨日で罰の掃除は終わったはずだった。 2日間だけ、というのが最初に言い渡された条件。 にもかかわらず、俺は3日目もこうして、美術室の前に立っていた。 別に、なんか理由があるわけじゃないけど——なんて曖昧な言い訳を心の中で並べながら、そっと扉を開けた。 音を立てて開かれた扉の向こうには、やっぱり彼がいた。 黒縁眼鏡、制服の第1ボタンまできっちり留めた服装、そして変わらない無言の準備風景。 昨日と何ひとつ変わらない光景がそこにあった。 今日の彼は、俺を見た瞬間にピクリと眉を動かす。 その目が『またお前か』と言っているようだった。 無言のままキャンバスをセットする。画材を並べる手の動きは、なんとなく雑だ。 明らかに〝警戒〟している空気が伝わってくる。 そこまで嫌そうな顔をしなくてもいいのに。そう思った瞬間、彼の口がゆっくりと開いた。 「……掃除、昨日までだろ。なんで来たの?」 低くて、乾いた声。 でも、初めて彼から話しかけられたことに対して、なぜかすこしだけ胸が跳ねた。 「あ~、いや、その……なんか、ピカピカにしたいなぁって思って!」 我ながら苦しすぎる言い訳だと思う。でも、それしか言えなかった。 「……意味不明」 冷静すぎる返しが、逆に清々しい。 彼は俺に背を向けて、キャンバスの方を向いた。 その表面には、まだ描きかけの絵がある。 昨日よりも形が増えて、輪郭もすこしずつ立ち上がってきているように見えた。 ……やっぱり、あの絵がなんだか気になる。 理由はわからない。でも目が離せない。 わからないのに、わかりたいと思ってしまう自分が不思議だった。 「……ねぇ、その絵さ、何描いてんの?」 ふと、自然に言葉が出た。 彼は答えずに椅子に腰を下ろし、ゆっくりと鉛筆を手に取る。 その動きひとつひとつが静かで、丁寧で、まるで音楽でも奏でているみたいだった。 「……」 しばらく無言で鉛筆をキャンバスに滑らせていた彼は、やがてぽつりと、静かに口を開く。 「……空」 たった一言。でもその声は、昨日までと違って聞こえた。 冷たいけど、どこか柔らかい。 温度を持った声だった。 「空……か」 そう言われてみると、確かに絵